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    農村から都市へ

    • 初版公開日:[2010年03月01日]
    • 更新日:[2010年3月1日]
    • ID:1545

    養蚕の村

    養蚕振興のパイオニアたち

    江戸時代の終わりころ、安政6年(1859)の横浜開港以後、蚕種(さんしゅ、蚕の卵)や生糸が主要輸出品となり、羽村でも養蚕が盛んになっていきました。

    明治維新後の20年間は、羽村が養蚕先進地から技術を導入した時期であり、こうした養蚕振興は、指田茂十郎・下田伊左衛門という2人の先覚者たちの力に負うところが大きかったといえます。2人は羽村の有力者でもあり、起業家・教育者としての資質に富んでいました。加えて、羽村の人たちが新しい産業・技術に敏感で、それらを組織的に取り入れていったことで、羽村の養蚕業は発展していったのです。

    指田や下田は信州や上州、奥州といった養蚕先進地をたびたび訪れ、新しい養蚕技術を導入しました。当時の先進技術の中で羽村に取り入れられたのは、群馬県佐位郡島村の顕微鏡による蚕の微粒子病検査法、福島県伊達郡梁川村の温暖育といわれる蚕室を一定温度にあたためる飼育技術、それに群馬県藤岡町の高山社流の清温育・折衷育(せっちゅういく)などでした。これらの新しい養蚕技術を養蚕集談会などで一般に普及し、明治17年(1884)には、八王子の谷合弥七らと神奈川県蚕糸業組合を設立し、多摩地方の養蚕発展の機運を高めていきました。

    指田・下田らは、先進地の技術をそのまま取り入れたのではなく、それを村内で研究・改良して、再度先進地の技術を比較検討しました。そしてその中から羽村の土地柄にあった独自の技術を考案しました。研究・改良の成果は、明治23年(1890)にに設立された成進社(せいしんしゃ)へと引き継がれていきます。成進社の指導のもと、羽村に近代産業として養蚕が定着していきます。

    養蚕業の発展と成進社

    成進社の事業は、一般農家への技術指導、養蚕指導者・技術者の養成、蚕種の自主検査、共進会の開催などでした。

    技術指導は、成進社流と呼ばれる温暖育の養蚕技術を指導しますが、社の講習所に入所させて行う場合と、農会や個人の依頼によって養蚕教授員を派遣して講習会や一定期間の指導を行う方法がありました。養蚕教授員は、成進社の講習所や講習会などで、学科や技術を習得したものの中から選ばれたもので、彼らを中心に成進社の技術は広められていきました。

    養蚕技術者の養成は、成進社の講習所で行われました。これは、実業学校のようなシステムで、所定の学科・実習などで技術を学ばせ、卒業試験も実施しました。

    下田は早くから蚕病予防に注目しており、成進社において社員の製造する蚕種の自主検査を行い、これに合格しないと製種を認めないことにしました。こうして成進社は信用を高めていきました。また、成進社自体も蚕種の製造販売を行いました。ほかに、繭(まゆ)や生糸、蚕種などの共進会を開催し、社員や農家の啓蒙(けいもう)にも努めています。

    成進社は、こうした事業を通じて明治20年代から大正期にかけて大発展を遂げました。成進社の最盛期には、成進社流の養蚕技術を学んだものは1府11県におよび、8000名に達したといわれます。

    成進社発展の条件は、生糸という当時の花形輸出産業に密着していた事業であったことに加え、養蚕が非常に高度な技術を必要とする産業であり、伝習所や講習所を必要としたことにあります。

    羽村の養蚕業の最盛期は大正7、8年(1918、19)です。大正8年の統計によると、春蚕(はるご)の生産戸数395戸・収繭量(しゅうけんりょう)3167石・価格383360円、秋蚕(あきご)の生産戸数410戸・収繭量4518石・価格494960円、合計7685石の収繭で878320円の売上でした。

    これより少し前になりますが、明治35年(1902)に編さんされた「西多摩村農事調査」では、羽村の養蚕業について、次のように記されています。「西多摩村(現羽村市)の農業は重きを養蚕業におき、農業生産高の七割強は繭、生糸の生産からである。したがって、四季を通じて労力を要する普通農業と両立させることはむずかしい。そこで、田畑の多くは桑園化し、日常食料品さえも他村から買い求めるような状況であり、農村生活としては異例の現象であるが、経済上やむをえない」。

    養蚕が盛んになると、村には製糸工場が次々につくられました。早くは、明治20年(1887)に下田伊左衛門が多摩川畔に製糸工場をつくりますが、これは 3年で経営不振に陥ります。明治37年(1904)に清水製糸、明治41年(1908)に加藤製糸、明治44年(1911)に並木製糸、大正5年 (1916)に下田製糸、昭和2年(1927)に中根製糸が、そして昭和6年(1931)には組合製糸である西玉社が操業をはじめています。これらの工場には、近隣や山梨県・神奈川県などからも多くの女工が集まり働きました。

    養蚕用具の数々

    羽村で使われた養蚕用具は主に、蚕種・蚕室・掃き立て・桑摘み・育成・上簇(じょうぞく)・収繭・桑園管理・糸ひき(製糸)に関するものに分類できます。また、養蚕信仰に関するものもみられます。

    蚕種関係用具

    明治初期には、信州・野州・上州などから多摩地域に蚕種(たね)屋がきて、そこから買っていました。明治20年代になると、下田伊左衛門が興した成進社の指導で蚕種の製造が行われるようになっていきました。

    蚕種関係用具
    蚕種紙(たねがみ)蚕卵を産みつけさせる紙で、28の区画があるものと全面に産みつけさせるものがある。
    雌雄鑑別器(しゆうかんべつき)繭を入れて光に透かして蛹(さなぎ)の大きさをみる。大きいほうがメスである。
    自動鑑別器大正期に発明された。
    蛾輪(がりん)・平付蛾輪(ひらつけがわく)中に蛾を入れて産卵させた。
    蛾箱(折りたたみ式・開閉式)産卵を終えた繭蛾(まゆが)を乾燥させて蛾箱に入れ、蚕業取締所に送って微粒子病の検査を受けた。
    顕微鏡蚕病の微粒子病検査を行った。
    枠製の蚕種(たね)昭和初期からは蚕種紙ではなくバラ蚕種(ばらしゅ)となった。蚕種は、明治から大正の中ころまで、浅間山麓の風穴や富士山鳴沢氷穴などに送り、掃き立て期まで保管してもらった。大正7年(1918)ころから青梅・福生・立川・町田などに蚕種貯蔵氷庫ができ、ここで保管した。
    蚕種輸送管郵便局や鉄道を通じて蚕種を販売した。
    乾燥用具人口ふ化のときに使った。

    蚕室関係用具

    古くから養蚕は農家の母屋を中心に行われてきました。普段生活している部屋を片づけて、蚕を飼えるようにしたのです。春蚕では、4月末に畳を上げたり囲炉裏を塞ぎ、仏壇などを移動してそこに差段を組みました。

    蚕室関係用具
    差段(枠・竹このめ・縄網)竹で枠を組んだ養蚕を行う棚。この棚に竹このめを乗せ、その上に蚕座紙を敷き、蚕の成長によって異なるが糸網や縄編みを重ねた。多摩川で洗った。
    防毒面・にない・ホルマリンの大型ビン蚕を飼う前にの室内消毒に使った。明治39年(1906)には加美地区有志が、清水製糸工場の傍らに蒸気消毒場をつくった。蚕室用具の共同消毒場は、何か所かにつくられた。
    練炭(れんたん)・蚕室用の鉄製または陶製コンロ・格子蓋・紙帳羽村の蚕の飼育法は、明治中期から蚕室を一定温度にあたためる温暖育にかわった。春蚕期は気温が低いので、障子を目張りして、床下に築いた炉で木炭や薪を燃やすか、コンロなどで蚕室をあたためた。格子蓋は床下暖炉の蓋。紙帳は障子の目張りのほかに室内を大きな厚紙で覆うのに用いた。
    藁草履(わらぞうり)蚕室での履きもの。
    ランプ・手燭・燭台蚕室の照明。

    掃き立て関係用具

    蚕の卵をふ化させることを催青(さいせい)といい、ふ化した蚕(蟻蚕、ぎさん、蟻に似ていることからこう呼ぶ)を掃き立て紙または包紙に移すことを掃き立てといいます。掃き立てが済むと、その日はうどんやまんじゅうなどのご馳走をつくって祝いました。

    掃き立て関係用具
    羽箒蚕種紙の後ろを竹ヒゴ状の棒でたたいて蚕座に移す。落ちないで残った蟻蚕を落とす箒。

    桑摘み関係用具

    春蚕では桑畑から桑のついたままの枝(桑条)を切ってきました。初秋・晩秋蚕などの桑は桑畑から1枚1枚葉を摘んできました。

    桑摘み関係用具
    桑切り鎌桑の枝を切る鎌。
    桑切り台桑の葉に泥が付くのを防ぐ台。
    扇風機雨でぬれた桑を乾燥させた手動の扇風機。
    桑こき(台付き・手こき)桑の葉を落とすのに使った。
    油紙雨のときや乾燥防止に桑の上にかけた。
    桑箱乾燥を防止した。
    桑摘みの爪初秋、晩秋蚕などの桑は桑畑から1枚1枚葉を摘んできた。人さし指に付けて使った。
    桑摘み籠摘んだ桑の葉を入れた。
    八本挟みくず掃きと兼用の籠。桑摘み籠から移して運んだ。
    まな板・桑切り包丁・包丁立て稚蚕期に桑を与える際、葉を2~3ミリメートルに切った。
    桑ぶるい手で切った桑の大きさをそろえるふるい。1~5センチメートルくらいの目。
    桑切り機械大正期から桑を切るのに使った。
    押切り条桑育(じょうそういく、桑の枝がついたまま桑給すること)の場合に長さをそろえた。

    育成関係用具

    蚕の掃き立てから上蔟までの育成期間に使う道具は、1軒で1~数個あれば足りるものから差段の竹などの数千の単位で必要なものまでありました。蚕の育成には差段を用いました。

    育成関係用具
    差段10畳間で普通は10段から12段用の枠を5枠づつ2列に並べ、それぞれに棚竹を通し(10段枠で40本、12段枠で48本)、間に竹このめを入れた(10段枠で80枚、12段枠で96枚)。
    竹このめ上に蚕座紙を敷き、蚕の成長によって異なるが糸網や縄編みを重ねた。
    糸だて蚕座には、古くは蚕筵(さんえん)、大正期には糸だてが使われ、その後、紙製のものが使われた。
    給桑(きゅうそう)ざる稚蚕の給桑に使用。
    給桑台このめを乗せて給桑や蚕の糞を取るシリヌキを行った。
    縄網を編む道具縄網は普通は購入するが、つくった家もあった。
    稚蚕飼育箱差段にさして使った。
    籾殻焼き(もみがらやき)、銅壺(どうこ)籾殻を炭化させて、蚕の硬化病(こうかびょう)予防のために蚕座を乾燥させるのに用いた。
    飼育標準票蚕業試験場から配布されたもので、温湿度・分箔・給桑・消毒などが一覧表になっている。

    上蔟関係用具

    蚕のヒキリ(熟蚕)を拾って、繭をつくる巣の蔟(まぶし)に入れることを上蔟といいます。

    上蔟関係用具
    島田蔟藁を利用した蔟。使い捨て。かたちが島田まげに似ていることからこう呼ぶ。
    手折りの道具自作の蔟製造道具。
    二角式蔟折り機冬の農閑期に蔟を折っておいた。
    寺田式改良蔟(千頭蔟)大正6年(1917)に考案された蔟。
    回転蔟第二次世界大戦後に出てきた紙製の蔟。
    自家製改良蔟(手編み)回転蔟と同時に使われた。
    蚕盆ヒキリを拾うときに使った。
    カルトン紙製の蚕盆。大正期か昭和期に入ってきた。

    収繭関係用具

    蚕は蔟にヤトってから約2日間ほどで繭をつくり終え、さらに1週間ほど経つと繭の中の蛹が固くなって繭かきとなります。島田蔟のときには、近所の人に手伝ってもらうほど人手を要しましが、回転蔟になってからは人手はいらなくなりました。かき取った繭は、毛羽(けば)を取ってから出荷しました。

    収繭関係用具
    ハリッカー古くなって痛んだざるに障子紙をはって、繭かき専用のざるをつくった。
    台ばかり・竿(さお)ばかりかいた繭の重さを計り、賃金を支払った。
    繭はずし・繭落とし回転蔟の繭かきに使った。
    繭升大正5年(1916)ころまでは繭の取引は体積で行った。一斗升・二斗升・紙製の折り畳みが使われた。
    一斗升繭の買い取り商人が使った携帯用の升。
    毛羽取り機繭についている毛羽を取ってきれいにした。明治・大正期には1粒ずつ手でむしった。
    手動式毛羽取り機)昭和初期に出た。
    足踏式毛羽取り機昭和12年(1937)ころに出た。
    繭みの繭の計量や毛羽取り作業に使われた。
    蚕ブラシ回転蔟についた繭の毛羽をとった。
    乾燥めかい生繭は10日ほどで蛹が蛾になって繭を破って出てしまうので、乾燥させて蛹を殺す必要があった。明治30年代後半から乾燥蔵をつくり、蔵の中央の炉に炭火をおこして、両側の棚にめかいを並べて乾燥させた。
    油単(ゆたん)繭を出荷するときに繭を入れた袋。

    桑園管理関係用具

    大正期から昭和10年(1935)前後まで、農地の約7割が桑畑でした。よい繭をつくるにはよい桑をつくることが必要で、養蚕農家は桑園管理に多くの手間をかけました。

    桑園管理関係用具
    平鍬・二本鍬・三本鍬・草かきじょれん・草かき・おかめじょれん中耕と除草に使った。
    万能(まんのう)・備中鍬(びっちゅうぐわ)鍬をこいだ。
    背負い籠(しょいこ)農具・水・間食などを入れた。

    糸ひき(製糸)関係用具

    明治30年(1897)前後までは、繭からひいた糸は、各戸で島田糸(かたちが島田まげに似ていることからこう呼ぶ)に製糸して家々に巡回してくる即座師(そくざし)といわれる仲買人に売り渡し、あるいは生繭のまま信州方面の製糸業社に売り渡していました。明治30年代後半になると、羽村の養蚕業は盛んになり、村には製糸工場が次々につくられました。その結果、養蚕農家は、自家ではくず繭をひく程度で、あとは生繭のまま村内の製糸工場に販売するようになりました。

    糸ひき(製糸)関係用具
    生糸繭からひき取ったままの繊維。
    玉繭・くず繭玉繭は1つの繭に2匹の蚕が入ってつくった繭。くず繭は出来が悪く、出荷用にならない繭。
    座繰・フミドリ・糸枠座繰は手動式、フミドリは足踏式糸取り機で、どちらも家庭で使われた。ひき取った糸は糸枠に巻かれる。
    口立て箒繭から生糸を取る際、糸口を出すのに使った。
    口すくい繭から生糸を取り終えたあとの蛹をすくった。
    操糸釜繭から生糸を取る際の釜。西玉社組合製糸工場などで使われた。
    からしざる・糸ひきめかいひき残りの煮繭を上げて置くときに使った。
    真綿かけ糸をひくうちに薄くなってしまった繭やくず繭を煮、水の中で延ばしてかけた。
    真綿真綿かけにかけてとった。
    揚げ枠・糸揚げ車座繰やフミドリでとった生糸の枠は不統一なので、一定の大きさにそろえるために揚げ返しを行う。
    ふわり・管巻き車管やほかの枠に巻き付ける。
    牛首・横管管巻き車と同じ役目。
    百回し糸の長さを測る。

    信仰関係用具

    信仰関係用具
    蚕影山神社の掛軸養蚕信仰の掛軸。

    青梅鉄道の開設

    鉄道開設までの道のり

    明治22年(1889)、八王子~新宿間に甲武鉄道が開通しました。西多摩でも、建築材料として需要の高まっていた石灰石を、産地の青梅から鉄道を利用して運ぶ計画が立てられます。

    明治25年(1892)、指田茂十郎や下田伊左衛門を含む15人の発起人によって青梅鉄道株式会社が設立され、明治27年(1894)11月、青梅鉄道(現JR青梅線)を開設しました。当初は1日4往復、立川と青梅を約1時間15分で結びました。

    鉄道による羽村の発展

    当時は機関車から出る煙や火の粉が桑や藁葺(わらぶき)の屋根によくないという意見が出され、鉄道は集落より少し離れて敷設されました。羽村停車場周辺は人家もまばらでしたが、砂利や繭(まゆ)、生糸などが盛んに出荷されるようになると、運送業を営む家をはじめ、しだいに駅の周りに家が増えていきました。

    小作停車場は、明治27年(1894)の羽村停車場と同時に開設されました。開設にあたっては、下田伊左衛門が中心となって、用地の提供や寄付金集めを行っています。また、駅の開設による市街地の発展を考え、駅の傍らに生活用水のための井戸を掘りました。この井戸は現在も小作駅東口に、懐古の井戸として保存されています。

    青梅鉄道ははじめ、石灰石のほか砂利・繭・新聞・豚・氷などの貨物を中心に運んでいました。昭和期に入って、徐々に沿線の工場に勤める人の利用なども増え、昭和19年(1944)、国に買収されて青梅線となったころから、旅客輸送の比率が急激に高くなっていきました。戦後は旅客輸送が中心となり、羽村市域をはじめ周辺の都市化を促す原動力となりました。

    戦後の復興

    不況の時代

    大正9年(1920)、第一次世界大戦後の戦後恐慌によって打撃を受けた養蚕農家は、大正末期の景気回復に期待をかけました。しかし、昭和2年 (1927)には金融恐慌にみまわれ、さらに昭和4年(1929)、世界恐慌の波が押し寄せ、農家の経済は破綻(はたん)をきたしていきました。

    不況に苦しむ農村を救済するため、昭和7年(1932)、農村経済更生運動がはじまります。翌年、西多摩村(現羽村市)は経済更生指定村に指定され、負債整理組合が設立されました。

    不況から脱出するため、村では昭和13年(1938)から乳牛の導入を行いました。この様子は『牛飼ふ村』という映画に記録されています。

    昭和16年(1941)以降になると、農村も戦時下の様相を帯び、食糧の供出割当が厳しくなり、桑樹・花卉(かき、観賞用植物)の整理通達が出されます。かつて「養蚕の村」といわれた面影はなくなっていきました。

    復興への歩み

    第二次世界大戦終結後、連合国最高総司令官総司令部(GHQ)により、農地改革が行われます。農地改革とは、政府が小作地を強制的に買い上げて小作人に売り渡すことで、多くの小規模自作農が生まれました。

    西多摩村の場合、農地改革前の昭和22年(1947)には、小作農は全農家606戸のうち256戸、つまり約42パーセントを占めていました。明治36年 (1961)には、約6パーセントでしたから、大きく増えたことになります。これは、養蚕の村だった西多摩村が、昭和初期の農業恐慌などの影響で農地を手放さなければならなくなり、農地が都内あるいは他府県の人の手へ渡っていった結果、小作人となってしまったからでした。これらの土地が、農地改革により西多摩村の小作人の手に戻ってきたのです。

    農地改革に続く農村民主化の一環として、昭和22年(1947)、農業協同組合法が施行され、翌年8月、西多摩村でも正組合員628人・準組合員207人の西多摩村農業協同組合(現西多摩農業協同組合)が発足しています。

    その事業は、じゃがいも・大小麦・生甘薯・干甘薯・繭・玄米の出荷、生活物資・肥料・農機具の販売、製粉・精麦・醤油醸造、倉庫での保管などでした。特に朝鮮戦争のころまでは精麦事業を中心に進め、のちに子豚の貸し付けや肉豚の販売などを行うようになり、羽村町の畜産農業を支えました。

    戦後間もなく、青年団活動や青年学校等の活動の中から、農業技術の研究と教養を高めていこうとする若者のグループ青新会が生まれました。畑作農業の機械化・畜力利用による農業の合理化を図り、先進地の視察や実験農場での技術研究を行っています。このころ、スキ・カルチベーター・ハロウ・作条機などが取り入れられています。

    彼らはまた、読書会や演劇なども積極的に行っています。この時期、青新会だけではなく、各地区に文化活動が興っています。当時の社会教育映画『時間のある村』に、その様子をうかがうことができます。

    農具の機械化

    羽村では、戦前までは手作業の農具を使ってきましたが、戦後、畜力を利用した農具が取り入れられました。そして、昭和30年代に入ると農業機械が導入され、農業も次第に近代化されていきました。

    代表的な農具
    平鍬明治以前から使われている伝統的な鍬。武蔵野台地は、関東ローム層といわれる軽移埴土であるので先が方形。また、柄が長い。
    三本鍬平鍬の改良された鍬で、明治後半から普及する。畑作農具の中心をなした。刃はそりがなく平たい。近年はそりも付けられ、刃の太さも根元が太く先端がだんだん細くなっている。
    打鍬類
    (備中鍬(びっちゅうぐわ)・万能(まんのう)・唐鍬・改良マンガ)
    備中鍬は畑地・水田を問わず主として耕起に使った。
    ジョレンおかめジョレン、草かきがあり、大正期から普及した。主に除草作業に使った。
    踏鍬畑作地帯では全国的に使われた耕起の農具。江戸末期から昭和初期まで使われた。
    鎌類麦刈りや草刈りなどに使った。桑切り鎌では桑の枝を切った。
    千歯こき元禄期に発明されて全国的に広まった。昭和20年(1945)くらいまでは自家用の種籾を脱穀するときに使っていた。
    足踏式脱穀機大正期に全国的に普及した。羽村では昭和12、3年(1937、1938)ころまで使った。昭和14年(1939)に西多摩村農業組合に動力式脱穀機が10台入ってきた。
    クルリ棒脱穀した穂から籾を落とした。
    ざる・籠類(肥ざる・草取り籠)肥ざるは堆肥を施すときに使った丈夫な籠。
    とうみクルリ棒で棒打ちした後に、しいな・藁くずなどを選別した。
    カルチベーター・プラウ明治期に北海道に輸入された畜力利用の農具。羽村では戦後に導入された。
    メリーテーラー昭和28年(1953)ころから普及した小型動力耕耘機。

    農業振興と市街地開発

    日本経済も昭和30年代になると、第二次世界大戦後の混乱期を乗り越えて安定期に入りました。農政においても食糧増産から経営の自立を目標とするようになりました。

    昭和31年(1956)には、政府は新農山漁村建設総合対策要綱を閣議決定し、新農村振興事業-新しい村つくり運動を展開しています。西多摩村も東京都農業会議所から農業振興特別指導事業指定村の指定を受け、西多摩村農業振興計画で、農業部門の重点を養豚事業に置くとうたっています。そして畜産振興のほかに、土地条件の整備・耕種改善・養蚕振興・生活改善・農事教育事業を計画しています。

    個別事業で主要なものは、小型自動耕耘機の購入・子豚の貸し付け・草屋根の解消・有線放送施設の設置などでした。小型自動耕耘機はメリーテーラーと呼ばれるもので、農業の機械化のはじまりであり、子豚の貸し付け事業は羽村の養豚業を飛躍的に発展させる契機となりました。また、草屋根の解消・有線放送施設の設置は農家の生活改善の一環であり、その生活様式を大きく変えました。

    この農業振興計画は、農業を町の中心産業として位置づけたものであり、その後の市街地開発計画の進行により、農業振興計画は変更を余儀なくされました。ただし、この計画によって軌道に乗った、養豚を中心にした有畜農業は大きく発展していきました。

    昭和31年(1956)10月1日、西多摩村は町制を施行し、羽村町となりました。

    農業振興計画は5か年計画でしたが、早くも昭和33年(1958)には計画の変更が必要となり、町長から農業委員会に「今後の町の農業計画とその具体的施策」について諮問(しもん)がなされています。農業委員会の答申は、市街地開発を必然的な時代の推移であると認め、開発にあたっては農耕地域の設定を行い、養豚・養鶏を中心とした有畜農業を基本に、近郊農業の特性を生かした疎菜(そさい、野菜)・園芸農業など高度集約的な経営を行う必要があると述べています。

    農業振興においては、昭和35年(1960)に畜産振興条例の施行を経て、昭和40年代中ごろまで養豚・養鶏を中心として、花卉・植木の栽培など、都市農業の進展が図られます。

    一方、農業振興事業が閣議決定されたのと同じ昭和31年(1956)には、首都周辺の開発をねらいとした首都圏整備法が施行され、西多摩村も市街地開発区域の指定を受けるべく準備をはじめています。こうして、農業振興と市街地開発は同時にスタートしました。

    有畜農業をさらに進めるため、昭和35年(1960)には、全国でも珍しい畜産振興条例を施行し、酪農・養鶏・養豚の3部門について助成や融資を行っています。

    翌36年(1961)には農業構造改善などを目的とした農業基本法が制定されます。そして農業近代化資金などの貸付事業が行われ、羽村町の畜産業はさらに発展していきました。

    このように羽村町の畜産業は順調な発展を遂げ、昭和35、6年(1960、61)ころにはデンマーク式豚舎や鉄骨鶏舎などが導入され、多頭羽(たとうば) 飼育へと移行していきました。また、豚の品種改良なども行われ、羽村の豚は都や国の共進会でも優秀な成績を修めています。

    都市農業の展開

    昭和37年(1962)には、羽村町は市街地開発の指定を受け、区画整理事業に着手します。

    翌38年(1963)、農業委員会では「農業近代化計画書」を作成しています。この計画は、青梅線以北は市街地および工業団地化されると想定し、青梅線以南に主産地形成を図ることを前提に個々の農家について調査し、530戸の農家のうち141戸について農業による自立経営の目標を立てています。

    順調な発展を遂げた養豚・養鶏も、昭和45、6年(1970、71)をピークに、その後は急激に飼育数を減少させていきます。

    このころ、栄町地区の区画整理や神明台地区の換地処分が終了し、さらに富士見平(ふじみだいら)・小作台(おざくだい)地区の区画整理にかかったところで、武蔵野台地は大きく変貌(へんぼう)していきました。

    同じ時期、高度経済成長期の影響から、羽村でも宅地開発が活発化します。町で操業する企業も多くの人員を採用し、人口が急増しました。それに対する住宅の供給が必要となり、農家は貸家やアパートの建設へと向かいはじめました。

    昭和50年代に入ると、区画整理が一層進み、耕地面積が縮小する中、有畜農業は減少し、花卉・野菜・植木・果樹などは、都市化された町の中で根強く続けられています。

    平成3年(1991)には、市政が施行され、羽村町から羽村市へと生まれかわりました。

    同じ年、生産緑地法が改正され、開発する農地と継続する農地の区分けがなされています。羽村市は、40ヘクタールの農地が指定を受け、都市の中の貴重な緑地空間を提供しています。

    近代都市への発展

    羽村町が農業によるまちづくりから、市街地開発による町の発展を見出すきっかけとなったのは、昭和31年(1956)に施行された首都圏整備法でした。

    この法律は、首都東京の過大都市化を防ぎ、同時に周辺地帯の開発をねらいとしたもので、首都圏整備の総合的な計画を策定し、秩序ある発展を促すことを目的としてます。

    これを受けて策定された首都圏整備計画では、計画期限を昭和50年(1975)として、首都圏を既成市街地・近郊地帯・周辺地帯と3区分して、それぞれにふさわしい整備を行っていくとしています。

    羽村町は周辺地帯に属し、その位置づけは、既成都市を核とする約30の市街地開発区域を指定し、既成市街地へ集中する企業と人口の吸収・定着を図ることを目的とする、市街地開発においては、工業立地条件・都市施設などを総合的に整備し、原則として工業地帯として発展させるというものでした。

    町では、この構想を受けて昭和31年(1956)に都市計画区域指定の申請を行い、翌32年(1957)に、福生(ふっさ)・瑞穂・羽村の3町合わせて福生都市計画区域に指定されています。これにともない、同年、町長の諮問機関として都市計画審議会を発足させ、昭和34年(1959)には住民アンケートを実施し、90パーセントの賛成を得ています。そして、市街地開発構想の策定・首都圏工業開発指定対策協議会の発足など、首都圏整備法による市街地開発区域指定への運動を展開していきました。さらに、工業団地造成の用地75000坪の用地買収交渉をはじめました。

    この年、上水道事業に3か年計画で取り組み、武蔵野台地の給水対策にも着手しています。翌35年(1960)には日本国有鉄道が青梅線の複線工事に着手し、36年(1961)には福生~小作間が開通しました。

    こうした市街地開発の動きの中で、将来にわたって農業を続けていきたいと思っている人の間から、反対運動が展開されましたが、農業を続けられる地区を定めることで和解が成立しました。

    町は、昭和36年(1961)1月の広報で「人口6万の工業都市建設」という見出しで、市街地開発構想を発表しています。

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