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羽村市

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あしあと

    多摩川とともに

    • 初版公開日:[2024年03月10日]
    • 更新日:[2024年3月10日]
    • ID:1542

    羽村の自然

    現在、私たちが羽村の自然を思い描くとき、あるいはそれは武蔵野の木立であり、あるいは多摩川や草花丘陵の動植物であるかもしれません。こうした自然は本来の原生の自然ではなく、自然と人間の営みとの間でつくり出されていったものだといえるでしょう。

    羽村市は、多摩川が台地を削ってかたちづくった階段状の地形、河岸段丘の上に広がっています。そこには多摩川や草花丘陵、台地やハケの林の動植物など、たくさんの自然が残されています。かつてこのあたりの林は、適度に下草が刈られ、枯れ枝が拾われ、畑の堆肥のために落ち葉が集められ、こまめに手入れがなされてきました。 そして、明るく清潔な林には鳥や昆虫や小動物が住処(すみか)をつくり、人々のくらしと調和のとれた自然がかたちづくられていたのです。

    羽村の自然もこのようにみると、人々のくらし、そしてその歴史と切り離せないものであることに気づきます。同じ地理的な環境の中で互いに影響を受けながら共存してきた動植物を通して、羽村の自然をご覧ください。

    縄文の世界

    段丘面に広がる原始の集落

    縄文時代は今から約12000年前から約2000年前までの、縄文土器を使用した時代を指します。縄文土器は、食物を煮炊きすることによって食べられるものの種類を増やし、食糧事情を安定させて定住生活をもたらしました。

    羽村市域には、4か所の縄文時代中期の集落遺跡があります。これらの遺跡はいずれも河岸段丘の縁辺にあり、縄文人は、ハケから出る湧水によって飲料水を確保し、背後に広がる武蔵野台地の広大な落葉樹の森林を舞台に生活していました。

    段丘地形と遺跡分布

    羽村市域の縄文遺跡は、多摩川上流から精進バケ遺跡・天王台遺跡・山根坂上遺跡・羽ヶ田上(はけたうえ)遺跡と、河岸段丘の上に多摩川と平行して点在しています。

    精進バケ遺跡は、勝坂式期から加曾利E式期の住居址や土坑、集石土坑が多数発見され、敷石住居址も見つかっています。勝坂期の住居址や土坑は主に南側から、加曾利E式期のものは北側から発見されています。この遺跡は、加曾利E式期中ごろを最盛期とする直径100メートル程度の環状集落だったと思われます。

    天王台遺跡は、今のところ住居址1件と集石土坑6基しか発見されていませんが、中期前半の土器が伴っており、羽村市域では最も古い時期の遺跡です。

    山根坂上遺跡は、これまでに64軒の住居址が発見されている加曾利E式期を主体とする直径120メートル程度の環状集落です。中央部に配石遺構を伴い、釣手土器が3点も出土していることから、祭祀性の強い遺跡であると考えられます。

    羽ヶ田上遺跡は、山根坂上遺跡に隣接し、勝坂式期・加曾利E式期の住居址が発見されています。

    このように、多摩川の河岸段丘上に集落が比較的近くに連続して存在していることは、わりあいに恵まれた資源環境にあったことを示しています。段丘の崖線部分からの湧水で飲料水を確保し、台地に広がる広大な広葉樹林では、クリやドングリなどの堅果類、あるいは鳥や動物を多く手に入れることができたものと思われます。

    川と森からの恵みを受けた縄文のくらしぶり

    多摩川中流域の中期縄文集落の周辺の環境を、土壌の花粉分析の結果からみてみましょう。ヨモギ属・スゲ科・イネ科の草本類が生い茂り、クリ属・クリカシ属・トチノキ属の樹木類が若干みられたと推定できます。雑木林を切り開いて集落を営んだことで、遺跡周辺には草が多く生え、伐採後の二次林としてクリなどが生えたと考えられます。

    狩猟の対象となった動物には、シカ・イノシシをはじめ、野ウサギ・タヌキ・テン・アナグマなどの小動物がいたと推測されます。精進バケ遺跡からは、シカ・イノシシの骨片とともに、キジの骨も出てきています。しかし、動物の捕獲は簡単ではないため、それを主食にしていたとは考えられません。

    では、いったい彼らは何を主食としていたのでしょう。縄文人の日常生活を支えたのは、木の実や根茎類をはじめとする植物性の食料であったと思われます。集落の背後に広がる広大な雑木林がその食生活を支え、春には各種の山菜、秋にはアケビ・ヤマブドウ・クリ・クルミ・ドングリ・トチなど、ほかにクズ・ワラビ・ヤマイモ・ユリ根などの採取が行われていたと考えられます。

    このことは、各遺跡から、土掘りの道具である打製石斧(だせいせきふ)・実をすりつぶす磨石・石皿が多く出土し、狩猟の道具である石鏃(せきぞく)が少ないことからも裏づけられます。

    また、多摩川での漁労については、山根坂上遺跡から石錘(石のおもり)が出土しており、盛んに行われていたものと思われますが、詳しいことは明らかにされていません。

    縄文集落と住居の様子

    縄文集落と住居の様子を、山根坂上遺跡を例にみてみましょう。

    山根坂上遺跡は、これまで6回の発掘調査を行い、集落のほぼ8割が明らかになっています。住居址は64軒が発見され、加曾利E式期を主体とした直径120メートル程度の環状集落が形成されていたことは前に述べたとおりです。

    集落の中央広場からは、外径9mの半円形の配石址が見つかっています。この遺構は、長さ11センチメートルからこぶし大の石まで230個の川原石でつくられており、周辺に土坑などが出ていないことから墓とは考えられず、祭壇であると推測されます。釣手土器も3点出土しており、祭祀性の強い遺跡であったと思われます。

    住居址は竪穴式住居で、地面を50センチメートルほど掘りくぼめ、柱を立てて屋根を葺(ふ)いた、半地下式の住居です。室内には炉が設けられ、面積はおよそ20~25平方メートルで、5、6人の家族が生活していたようです。

    住居址の周辺には、集石土坑が数多くみえます。集石土坑は、地面に直径1m、深さ50センチメートルほどの穴の中に焼けて割れた石がつまっているもので、調理用施設のひとつです。イノシシやシカの肉を石で蒸し焼きにした跡ではないかと思われます。

    山根坂上遺跡の住居址64軒を調べていくと、6つの時期に分けられます。配石址がつくられ、釣手土器が使用された時期は第5段階の時期で、19軒の住居址があてはまりますが、これも一時期に同時に19軒の集落があったわけではなく、5、6軒の集落であったようです。

    縄文以降の羽村市域~中世を中心に~

    弥生時代から古墳時代へ

    長い狩猟採取の時代を経て、日本に大陸から稲作や鉄器などが伝えられると、農耕生活を特色とする弥生時代が訪れます。そして、農業技術が進み、時代は古墳時代へと移り変わっていきます。

    羽村市域からは、弥生時代の遺跡は発見されていません。これは、治水や灌漑(かんがい)技術が未発達の時代には、多摩川のような大きな河川の中・上流域では水田をつくることができなかったからではないかと考えられています。

    古墳時代の終わりころに、羽村にも人の住んだ痕跡が現れます。羽加美4丁目951番地付近の根搦前(ねがらみまえ)遺跡です。昭和31年(1956)ころ、水田から小型壺形土器、・坏形土器・土製支脚が出土しました。土製支脚は、竈(かまど)の中で甕(かめ)を支えるために使われたもので、竈をともなった住居があったことがわかります。根搦前遺跡は、多摩川の流れが大きく曲がっている内側にあり、川面より少し高くなっていることから、崖線からの湧水を利用して水田をつくったのではないかと思われます。

    縄文時代の遺跡と比べると、だいぶ低い位置に生活の舞台が移ってきたことがわかります。

    井戸・湧水とくらしの広がり

    中世の羽村では、三田氏の一族が領していた長淵郷(ながぶちごう)からの開拓を受け、小作(おざく)地区や一峰院周辺に集落が形成されていきました。また、河岸段丘上段の五ノ神(ごのかみ)地区には、鍛冶や鋳物の技術をもった集団が定住しました。 これは、まいまいず井戸がある地点の周辺にあたります。

    棟札や文書にみる中世の羽村

    中世には、羽村市は青梅市・奥多摩町の一部とともに、杣保(そまのほ)と呼ばれていました。この杣保勝沼(現青梅市)の地を鎌倉幕府から受領したのが三田氏でした。

    三田氏は、勝沼城を拠城として、鎌倉時代の末期から戦国時代にいたる約260年間にわたって杣保を支配した豪族です。特に、永正・天文年間 (1504~1555)のほぼ50年間、三田弾正忠氏宗とその子政定の時代には盛んに領内各地の神社や寺院を造営しています。また、勝沼城を居城とする三田宗家に対し、分家筋にあたる三田一族も長淵郷を統治し、各地の寺社造営を行っています。

    羽村市域は長淵郷の一部、しかも杣保の三田領の東端にあたる重要な位置にありました。羽村市にある阿蘇神社の天文5年(1536)の棟札(むなふだ)に「三田掃部助定重(みたかもんのすけさだしげ)」が「武州杣保長淵郷羽村安所(あそ)」を修造したという記述があります。また、一峰院の由緒にも開基が「三田雅楽助将定(みたうたのすけまささだ)」と記されており、羽村が三田氏の支配を受けていたことがわかります。

    この時代に、羽村市域に関することが初めて文書の中に登場します。青梅市郷土博物館所蔵の宝林寺文書の中に、「うり渡す武蔵国杣保長淵郷小佐久村の内しはたやしきまいねんとくぶん五百文のところなり(中略)右件の所は勝千ちうたいそうてんの所也(後略)」とあります。この文書は、応永25年(1418)の土地の売買証文で、三田安芸太郎入道勝千が宝林庵主梵秀に小佐久村の内「しはたやしき(屋敷)」の内毎年500文の得分を10年10作分売ったという証文です。宝林庵というのは下長淵にあり、この証文と同じ年に、三田左衛門五郎平朝貞が土地建物を寄進してつくった寺です。

    宝林寺文書には、小佐久村(羽村市内小作地区、現羽西3丁目)に「しばた」という有姓の屋敷持ちの有力百姓がおり、屋敷地に付属する耕作地の一部の耕作権 500文を三田安芸太郎入道勝千が重代相伝していたという記述もあります。三田安芸太郎入道勝千は、宝林庵に売寄進できるだけの余剰を蓄えた領主でした。

    中世における「村」という単位は、多くの場合新開の地を指しており、宝林寺文書に出てくる小佐久村、阿蘇神社の棟札に出てくる羽村は、長淵郷からの開発によって開かれたところだと考えられています。

    板碑からみる中世の羽村

    中世の羽村の様子を知る上で貴重な資料に板碑(いたび)があります。板碑とは、青石塔婆と呼ばれるもので、緑泥片岩(りょくでいへんがん)を用いて板状に加工され、山がたにとがった頭部の下に2条の切り込みがみられます。上部には種子(しゅじ、仏・菩薩を梵字で表したもの)や画像で本尊を表し、下部には紀年銘・銘文・偈(げ)などが彫られた供養塔婆です。

    板碑は13世紀前半から17世紀初頭にかけて、約400年間にわたって建てられています。板碑を造立したのは、在地の領主階層の武士たちでしたが、室町時代中ごろからは上層農民、あるいは結集板碑にみられるように、下層の農民たちが集団で造立するケースも出てきています。

    羽村市の板碑は、現物が不明のものや断片を加えると、103基(点)が確認されています。出土地点の分布をみると、小作地区・一峰院周辺・五ノ神地区の3か所に集中しています。このことから、これらの地域に中世の集落が存在したものと推測されます。

    小作地区は板碑のほか、至徳4年(1387)の銘がある宝篋印塔(ほうきょういんとう)の中世文書(残欠あり)にも「小佐久村」として表れる土地で、中世に村が存在したことをものがたっています。

    羽村市出土の板碑のうち、約45パーセントは一峰院周辺に集中しています。年代的には室町時代のものが主流を占めています。一峰院周辺は、羽村で唯一の水田が開かれたところで、吉祥寺跡や一峰院、そして阿蘇神社といった古社寺もあります。また、一峰院の南面は「白木」という羽村発祥の地であるとの伝承が残されています。

    五ノ神地区のまいまいず井戸は、竪に地底を掘り起こす、いわゆる上総(かずさ)掘りの技術が導入する前の古い形の井戸です。

    元文6年(1741)にこの井戸を修復しており、そのときの「熊野井戸普請」文書に井戸から出てきた板碑の記載があります。「掘りかへ申候節そこより如斯の年号御座候石とう廿四五本出て申候年号見へ申候分如此に御座候」とあり、建永(1206)・正和(1312~1316)・康永(1342~1344)・延文(1356~1360)・正慶(1332~1333)・貞治(1362~1367)・応永(1394~1427)・正長(1428)・明徳 (1390~1393)の年号が記載されています。これらの板碑は、現在では貞治以外のものは所在不明となっています。建永(1206)年号の板碑が残っていれば日本最古の板碑となっていたかもしれません。

    五ノ神の鋳物師集団

    五ノ神地区は、江戸時代は五ノ神村という独立した小さな村でした。地形的にみると、武蔵野台地上にあり、湧水なども期待できないところで、まいまいず井戸と呼ばれるすり鉢状の古い形の井戸を掘って水を得ていました。

    農業を主体とした羽村では、多摩川の近くに住むのが普通で、川から離れた五ノ神地区に住んでいた人々は、農業以外の生産活動に従事していた考えられます。

    それでは、五ノ神地区にはいったいどんな人々がくらしていたのでしょう。

    まいまいず井戸の近くには、鋳物を鋳造する際に出る鉄かすが塚をなしていたといわれ、また、発掘調査により鋳工跡も確認されています。こうしたことから、五ノ神地区に住んでいたのは鋳物師(いもじ)の集団であったとされています。鋳物師とは、鍋や釜、鋤(すき)などを生産・販売し、また需要に応じて梵鐘 (ぼんしょう)や鰐口(わにぐち)などの鋳工を生業とする技術集団のことです。

    五ノ神鋳物師の鋳造した梵鐘は、青梅市の塩船観音寺などに残っています。 五ノ神鋳物師は、水を得難いかわりに、鉄を加工するのに必要な炭が得やすい台地上を定住場所に選んだものと思われます。

    江戸時代の羽村市域

    段丘と台地に広がる田畑

    江戸時代の羽村市域は、羽村(註 現在の羽村市域と区別するため以下斜体表記)・五ノ神村・川崎村の3村に分かれていました。五ノ神村は多摩川の河岸段丘上にありましたが、羽村・川崎村は村の西端を多摩川が流れていたため、河川との関わりの中で日常生活を送っていました。

    耕地は五ノ神村は全て畑地、川崎村はかつての水田が洪水で流された結果、やはり全て畑地でした。羽村にも、一部水田がありましたが、耕地の約98パーセントが畑地でした。耕地の生産性は、江戸時代の基準となる石盛りに比べると全般的に低く、耕地の生産性を高めるために、芝草・糠(ぬか)・灰・下肥などの肥料が大量に必要とされました。

    3村の18世紀中ごろ(宝暦期)の耕地面積をみてみると、羽村が313町(282石)、五ノ神村が27町(70石)、川崎村が88町(364石)となります。田方は羽村の6町あまりに過ぎず、約98パーセントが畑方でした。

    畑方の等級は、下畑・下々畑・切畑などの生産性の低い畑が大半を占めました。切畑とは、切り替え畑、いわゆる焼畑のことです。草地・林地などで草や雑木を焼き、その焼け跡に蕎麦(そば)・稗(ひえ)・大豆・粟などを蒔き、数年間栽培を続けて地力が衰えるとともにそれを放置して、十数年後に再び焼畑を行うのです。

    こうした畑作地帯の地味の悪い土地で収穫量を上げるには、多量の肥料を投入することが必要でした。畑への肥料は、芝草・むぎからなどを腐らせた自作の肥料と、糠・灰などの購入肥料である金肥(きんぴ)を使っていたようです。金肥の使用は生産量を高めた反面、農民は肥料代の支払いに苦しむようになりました。

    羽村では薪や馬草が不足するので、馬持ちの百姓は江戸から肥料を買ってきました。また、御岳や檜原の方まで出かけていって肥やしを取ってきました。その道のりは5里もあり、肥料の調達には苦労したようです。

    近世の羽村でつくられた商品作物

    江戸時代に羽村・五ノ神村・川崎村の3村の畑で作られていた作物は、大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・陸稲(おかぼ)・里芋・荏(え、エゴマの古称、シソ科の一年草で種子から油を採る)・大豆・小豆・大根・蕪(かぶ)・菜などでした。

    畑にかかる年貢は、田方は米納でしたが、畑方は金納だったので、年貢を納めるためには農作物を売ってお金に変えなければなりません。日常食べるために生産するのは粟・稗・芋・菜・大根・大麦少々で、小麦・蕎麦は売って年貢や肥料代にあてていました。

    作物の作柄が悪いか市場の価格が低くなると、年貢が納められなくなり、自分の畑を手放さなければならなくなってしまします。そうならないために、村人は畑仕事の合間に農間余業(のうまよぎょう)をしなければなりませんでした。

    農間余業

    人々は忙しい農業の合間をぬって、お金を得るためのいろいろな仕事を行いました。これが農間余業です。では羽村では、どのような農間余業が行われていたのでしょう。

    男は駄賃日傭取りといわれる雑用に雇われてお金を稼ぐことが最も多く、馬を持っている者は江戸に荷物を運ぶ仕事をしました。

    女は養蚕や機織りをしてお金を稼ぎました。女たちが織った織物は、紬(つむぎ)・木綿縞(青梅縞)・黒八丈などで、 近隣の青梅村(現青梅市)や新町村(現青梅市)の市場で売りました。

    時代が下ると、羽村・川崎村では、多摩川での鮎漁や筏下げに従事するものも現れました。

    農間余業は実際には余業ではなく、生活を維持していくのに必要不可欠なものでした。特に羽村では、養蚕が不作だと年貢が払えないという記述が18世紀半ばに出てくることから、養蚕が重要な収入源であったことがわかります。

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    羽村市教育委員会 生涯学習部郷土博物館

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