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あしあと

    玉川上水をまもる

    • 初版公開日:[2012年03月01日]
    • 更新日:[2023年2月14日]
    • ID:1544

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    江戸時代の玉川上水の水門模型
    江戸時代の羽村堰の模型
    木樋と上水井戸

    玉川上水をつくる

    江戸に水を引く

    玉川上水は承応2年(1653)、江戸のまちや武蔵野台地の村々への飲料水や生活用水を供給するためにつくられた上水道です。

    慶長8年(1603)、徳川家康によって江戸に幕府が開かれると、江戸は急速に発展し、多くの人々が集まってきました。三代将軍家光のころには、参勤交代が導入され、江戸の人口はますます増え、水不足が深刻な問題となりました。

    そこで、多摩川の水を羽村から取り入れ、武蔵野台地を掘って約43キロメートル先の四谷大木戸(現新宿区四谷)まで流し、そこから先の江戸の市中は石や木でつくられた水道管(樋)によって給水する計画が立てられました。

    上水をつくる

    玉川上水は、庄右衛門と清右衛門という兄弟の立てた計画を幕府が認め、6,000両の資金を与えて工事を行わせました。途中でお金が足りなくなり、2人は自分たちの家を売って工事の費用に充てて上水を完成させたと、後に2人の子孫が残した記録に出ています。

    また、工事は途中で2回失敗し、3回目に安松金右衛門という人が計画を見直して、ようやく完成したという記録もあります。

    玉川上水の完成により、町人だった庄右衛門と清右衛門は「玉川」という姓をもらい、上水の管理の仕事を任されました。玉川家による上水の管理は、江戸時代の中ごろまで続きました。

    武蔵野台地を測る

    羽村と四谷の高低差は約92メートル、100メートル進むごとに21センチメートル下がる計算になります。このように距離が長く勾配(こうばい)のゆるやかな水路を掘るためには、しっかりとした測量の技術が必要です。どのような技術を使ったのか詳しい記録は残っていませんが、玉川上水の測量では、夜、提灯や線香を持った人が工事予定地に並び、その明かりの列を見て高さや直線を測ったという話が伝えられています。

    開削工事の様子

    玉川上水の開削工事については、当時の記録が残っていないため、詳しいことはわかっていません。

    福生(ふっさ)市にある新堀と呼ばれる部分は、上水ができてから90年ほど後に掘りかえられた部分です。これについては、工事予定地をいくつもの区間に分けて同時に掘り進めたという記録が残っています。

    玉川上水の堀の部分は8か月という短期間で掘り上げているので、新堀と同じように、区間に分けて掘り進めたものと思われます。

    江戸と羽村を結ぶ

    玉川上水は、水が自然に流れ落ちる力によって江戸まで水を引いています。武蔵野台地で分水をしながら江戸まで水を流すには、標高が高く、十分な水量があるところから引き入れる必要があります。江戸のまわりの小さな川では必要な水量が確保できず、また自然な水の流れで配水するためには標高も足りません。

    玉川上水は多摩川本流から直接取水し、いくつもの段丘面を越えて武蔵野台地の最上面に導かれました。そのために、多くの分水や、台地上にある江戸城をはじめとした江戸のまちへの配水が可能になったのです。

    羽村は標高も高く、多摩川が南岸の草花丘陵の尾根にぶつかり対岸に向かって水が集まる地形になっていたため、取水口として選ばれたと考えられます。

    玉川上水のしくみ

    羽村の堰と取水口

    羽村の堰(せき)では、自然の水の流れが蛇籠(じゃかご)や枠、投渡堰(なげわたしぜき)によって誘導され、取水口から取り込まれています。蛇籠や牛枠、三角枠といった水流をコントロールする工作物は、川の流れを変えたり、上水の水位を一定に保つよう工夫されています。

    投渡堰は、投渡木(なぎ)と呼ばれる丸太を横に渡し、そこへそれより細い丸太や木の枝、砂利などをあてがってつくってあります。大水のときは、取水口へ水が集まり過ぎて水門や土手を壊してしまうので、この投渡木を外して堰を取り払い、水を多摩川に流すことで上水をまもりました。

    さらに、上水の土手を水が押し流してしまわないよう、川の流れの勢いを弱める出しがつくられています。出しは、蛇籠などを土手から斜めに多摩川のほうへ突き出させたもので、堰の下から川崎村のあたりまで7つありました。

    取水口には二つの水門がつくられ、それぞれ一の水門・二の水門と呼ばれました。一の水門で水を取り入れ、二の水門で水量の調節をします。それぞれ、差蓋(さぶた)と呼ばれる板を差し落とすことで水門を開閉しました。一の水門と二の水門の間には小吐口(こはきぐち)と呼ばれる吐き出し口があり、余分な水などを多摩川へ戻すようになっています。どちらの水門も太いケヤキの柱を組んでつくられていました。

    かつては幕府の出先機関として陣屋が置かれ、その下で水番人と呼ばれる管理人が堰を守っていました。現在は東京都水道局羽村取水管理事務所で管理しています。

    水番人

    幕府は玉川上水を維持するために、上水沿いの羽村・砂川村(現立川市)・代田村(現世田谷区)・四谷大木戸(現新宿区)に水番人を置きました。水番人は、お互いに連絡を取り合って上水や分水の水量調節をしたり、各自の持ち場の見回り、壊れているところの修理といった上水の管理を行いました。また、上水にかかる橋の管理も水番人の仕事でした。

    羽村の水番人の仕事を見てみましょう。

    • 堰や水門の見まわり
      羽村には幕府の上水管理の役所である陣屋が置かれ、水番人は役人の指図を受けて働いていました。水番人は陣屋のそばにある水番小屋につめていました。水番人の仕事で一番大切なことは、上水の施設を維持し、水量を保つことです。そのために、堰や水門・水路の見回りは欠かすことのできない務めでした。
    • お囲竹木の調達
      羽村の堰は、投渡堰をはじめ大部分が木や竹や石などでつくられていました。そのため常に予備の材料を備えておいて、毎日の見回りの中で壊れたところをみつけると、人を雇って修理しました。これらの材料は「お囲竹木(かこいだけぎ)」「お囲石(かこいいし)」と呼ばれていました。
    • 投渡堰や水門の管理
      大水のときには、上水路や水門が壊れないよう投渡木を払います。投渡木を払った投渡堰はできるだけ早く直しました。また、上水に流れ込む水量を一定に保つために水門の差蓋の開け閉めを行ったり、上水にかかっている橋の管理も担当していました。
    • 堰や上水の修理
      大水の後、陣屋の指示で水番人は堰や水門の壊れたところを細かく調べます。それをもとにして、陣屋では修理工事を請け負いたい人に工事にかかる費用を計算させ、一番安かった人に請け負わせました。たくさんのお金が入るため、羽村でも多くの人や資材を使うような請負人が現れます。水番人は上水管理のほかに、自らこうした請負にも参加しました。

    江戸と上水

    四谷大木戸から先は、地下に樋(とい)を埋め込んで、その中に上水の水を流しました。江戸のまちの人々は、途中に設けられた枡(ます)や上水井戸から、飲み水など生活に必要な水を汲み上げて使いました。

    また、江戸城や武家屋敷などでは、堀や池の水としても使われました。これは、庭づくりのためだけでなく、火事や戦争に備えるためではなかったかといわれています。

    配水のしくみ

    配水には木や石でできた樋や枡が使われました。木樋(もくひ)や枡は、船づくりの技術を生かして、水が漏れないようにつくられています。

    樋は継ぎ手や枡によってつながれていました。枡には、水路を枝分かれさせる、水の量やにごり具合を確認する、ゴミや土砂を取り除く、差蓋という仕切りによってそこから先への水を止めるなど、いろいろな役割をもつものがあります。

    また、枡によっては、入る側の樋よりも出ていく側の樋が高い位置についているものがありました。これは、水の自然な流れを利用するために、先の方で樋や枡がどんどん深くなってしまうことを防ぐための工夫です。

    武蔵野台地に分水を引く

    上水で開かれる武蔵野台地

    羽村から引き入れられた多摩川の水は、途中新しく開かれた村々へ分けながら、上水堀を流れて行きます。これを分水といいます。昔から武蔵野台地は水が乏しく、人が住むことはできませんでした。しかし、分水によって、多摩川沿いや狭山丘陵のまわりにあった古い村々からしだいに人が集まるようになり、たくさんの畑が開かれていきました。

    分水を利用した新田開発

    新しくつくられた新田村では、畑を開く人たちに均等に土地を分けるために、街道や分水に沿って土地を規則正しく長方形に区切り、その中に家や畑をつくりました。こうした区切り方を「短冊形地割り」と呼びます。

    武蔵野台地の中心部では新田といってもほとんどが畑で、分水の水は主に農家の飲み水など生活用水として大切に使われました。

    台地の周辺部では、水田に分水を引き入れていたところもあります。ところどころに水車がかけられ、主な産物であった麦や蕎麦(そば)などの殻をとったり、粉に挽いたりしました。

    近代水道への歩み

    上水に船が通う

    明治3年(1870)、玉川上水にはじめて船が通いました。これを通船(つうせん)といいます。江戸時代には、上水が汚されることを防ぐため、幕府は船の行き来を許しませんでした。しかし、明治になって政府がかわるとすぐに通船が許され、多くの人が船や船頭を用意して輸送事業に参加しました。

    多摩地域はもちろんまわりの県からもいろいろな品物が輸送され、たいへん盛んになりましたが、2年後の明治5年(1872)、上水の汚染を理由に急に禁止されてしまいます。これ以後何回も通船の再開願いが出されますが、ついに許されることはありませんでした。通船の禁止は、のちに甲武鉄道や青梅鉄道を開設するきっかけになりました。

    上水の水質悪化

    江戸時代には、多摩川の水がそのままで上水に引き入れられ、飲料水などとして使われていました。ですから、ときには井戸の中で魚が泳いでいることもあったと伝えられています。

    しかし、幕末になると上水の手入れも行き届かなくなり、大きな地震もあったため、玉川上水の水質が落ちました。加えて、明治維新によって玉川上水の管理は幕府から新政府の手にわたり、通船が行われたことなども影響し、当時の上水の汚染はかなり進んだ状態であったようです。そうした中、明治19年 (1886)には、東京でコレラが流行してしまいます。コレラは不衛生な水によって伝染することから、水道の近代化が求められるようになり、当時の東京市は、西洋式の水道への改良に着手しました。

    近代水道への脱皮

    政府はまず、水道の徹底した管理を行うために、多摩川の水源をその管理下に置きました。もともと神奈川県であった多摩地域は、多摩川の水源ということで、東京府に組み入れられます。

    明治31年(1898)には、上水の水を濾過(ろか)し、鉄の水道管にポンプで圧力をかけて送るための設備を備えた淀橋浄水場が完成します。

    こうして玉川上水は近代的な水道へ生まれかわり、東京の発展とともに設備を拡充していきました。

    安定した水量を確保するため、大正から昭和の初めには村山・山口貯水池や境浄水場が、昭和32年(1957)には小河内ダムが完成します。

    玉川上水の現在

    やがて利根川など、多摩川以外の河川からの取水がはじまると、しだいに玉川上水の役割は小さくなっていきました。

    昭和40年(1965)、東村山浄水場が設置されると、淀橋浄水場が廃止され、小平監視所より先の上水路は使われなくなりました。空堀の玉川上水は、荒れたり、公園や道路にかわっていきました。

    そうした中、その歴史的意味や貴重な緑地としての価値を認めて、玉川上水を保存しようという運動が広がりをみせました。昭和61年(1986)、小平監視所から先へ、下水処理場で浄化した水が流れ、玉川上水は都市のなかの憩いの場として復活したのです。

    現在では、取水堰から福生市の宮本橋までは都立自然公園として、そこから下流の開渠(かいきょ)部分は、都の歴史環境保全地域に指定され、周辺の開発計画と調整を図りながら、積極的な保護と活用が図られています。

    国内外の代表的な上水

    日本の上水

    玉川上水のほかにも、日本各地で江戸時代以前から上水がつくられています。代表的な上水を、つくられた年代順に追ってみましょう。

    • 天文14年(1545) 早川上水(神奈川県小田原市)
    • 文禄3年(1594) 甲府用水(山梨県甲府市)
    • 元和6年(1620) 四ッ谷堰用水(宮城県仙台市)
    • 元和8年(1622) 福山水道(広島県福山市)
    • 寛永9年(1632) 辰巳用水(石川県金沢市)
    • 天保1年(1644) 高松水道(香川県高松市)
    • 寛文3年(1663) 笠原水道(茨城県水戸市)
    • 享保8年(1723) 鹿児島水道(鹿児島県鹿児島市)

    ヨーロッパ世界の上水

    有名なローマの水道をはじめ、ロンドン・パリ・ウィーン・ミュンヘンなどヨーロッパ各都市にも古い時代からの上水があり、人々のくらしを支えてきました。

    イギリスのロンドン市内へ給水しているニューリバーは、玉川上水より40年ほど早い1613年(慶長18)年につくられました。水路の延長は約60キロメートル、現在は約43キロメートルに短縮され現役の水道施設として使われています。驚くことに、このニューリバーは、取水地と水路部分の終点との標高差がわずか5 メートル4センチしかありません(玉川上水は約92メートル)。つくられた時代やその規模など、玉川上水ときょうだいともいえる上水です。

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    羽村市教育委員会 生涯学習部郷土博物館

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