妙徳山禅福寺の正面に建つ山門は、切妻造の四脚門で、市内でも稀な茅葺きの建造物です。
寺伝では寛正3年(1462)の建立と伝えられていますが、棟札や墨書などがないため、時代判定できる資料が少なく、実際の建立年代は不明です。
屋根の破風下の懸魚は、江戸時代中期の様式であることが解体修理による調査から判明しています。
市内唯一の田園地帯に臨む、龍珠山一峰院の山門です。
江戸時代末期の建立で、宮大工小林藤馬の手によるものです。非常に軽快で均整のとれた外観と、細かな彫刻のバランスが美しい建物です。
楼上に釣られていた鐘は、かつて玉川上水の出水急破の際に、人を集めるために鳴らされました。
一間社流造の社殿は、銅板葺の屋根に軒唐破風が付く構造で、弘化3年(1846)から3年にわたって、宮大工小林藤馬により造立されたことが、残されている設計書や出面帳からわかります。
全面に見事な彫刻が施されています。なかでも水引虹梁や妻虹梁の絵様、龍の彫刻には目を見張ります。
五ノ神社は、かつては熊野社と呼ばれ、旧五ノ神村の鎮守でした。一間社流造の本殿は、現存する木割帳から嘉永2年(1849)から文久2年(1862)までの間に、宮大工小林藤馬によって造られたことがわかります。
柱などを飾る彫刻は「天岩戸」、「神功皇后の征韓」、二十四孝逸話の中の「郭巨の釜掘り」などがモチーフとなっており、芸術家としての藤馬の才能を垣間見ることができます。
建立年代は不明ですが、虹梁の絵様は近世初頭の様式を示しています。寺伝によれば、天正11年(1583)に、多摩川を流れてきた1本の流木で造立され、「一本木堂」と称したといいます。
桁行三間、梁間三間、宝形造り、銅板葺きの仏堂型仏堂で、内部の仏壇には昭和時代に彫られた薬師如来が安置されています。
かつては、多摩川に近い段丘の上にありましたが、昭和28年(1953)に現在地へ移築されました。
旧小作集落の鎮守である松本神社の本殿は、現存する棟札から天保11年(1840)に宮大工小林藤馬によって造られたことがわかります。一間社流造の社殿は藤馬の作としては珍しく質素な彫刻にまとめられています。
境内には、関東大震災で倒壊した鳥居の一部が置かれています。
山根坂上遺跡は縄文時代中期後半の集落遺跡です。過去6次にわたる調査が行われ、竪穴式住居64軒などや多量の土器や石器などが発見されています。
一つの遺跡から複数の釣手土器が発見されることは稀で、通常の生活で使用されていたとは考えにくく、何か特別な行事で使用されたものでしょう。土器の痕跡から、灯明具のような道具とも考えられます。
指定日:平成9年8月1日
所在地:羽加美1-12-30
一峰院の本尊である十一面観音坐像は、寄木造り、玉眼嵌入の尊像で、厳しい表情とがっしりした体躯に作られ、非常に存在感があります。法衣の裾を台座から長く垂らしている点が特徴的で、この像の製作が室町時代まで遡ることを示しています。
禅福寺の本尊で、うずくまる獅子の上に据えられた蓮華座に結跏趺坐する文殊菩薩坐像です。
江戸時代前期の製作とされ、金銅製の宝冠を頂き、胸に珱珞を付ける容姿は非常にきらびやかで、像の底には漆の痕跡も残されています。
木造、漆箔の十一面観音立像で、江戸時代の作といわれています。面相、胸、両腕等の肉身部に金箔を置き、天衣、条帛、裳等に彩色を施し、古色を呈する像容です。
禅林寺の本尊は如意輪観音坐像ですが、寺での信仰も厚く、地域的特色を考慮して羽村市指定有形文化財に指定しています。
宗禅寺の本尊釈迦如来坐像とその脇侍の迦葉・阿難像です。釈迦如来坐像は、木造、漆箔の尊像で、衲衣を通肩にまとい、禅定印に結び彫眼彩色で銅製の白毫をつけた像容です。
迦葉・阿難両像とも寄木造り、玉眼嵌入、彩色の像容です。いずれも天保10年(1839)に製作されたことが判明しています。
玉川上水水番人を務めた指田家に残された江戸時代中期から昭和時代後期までの文書群です。
羽村市郷土博物館に収蔵されている226点が指定を受けています。
玉川上水の管理に関する資料のほか、通船事業やその後の甲武鉄道・青梅鉄道関係の資料をはじめ、養蚕振興や中里介山に関する文書もあります。
江戸時代に川崎村の名主を務めた中根家に残された江戸時代中期から昭和時代後期までの文書群です。羽村市郷土博物館に収蔵されている1,892点が指定を受けています。
明和元年(1764)から慶応3年(1867)までの年貢等の徴収の様子が克明にわかる文書や、寛政元年(1789)から明治2年(1869)までの宗門人別帳など、旗本領川崎村の村運営を多角的に知ることのできる文書が多く残されています。
阿蘇神社に伝わる、「阿形」の木彫狛犬です。左右自由に巻くたてがみやまっすぐな腰の立ち上がりなどから、平安時代後期の作と推定されています。檜の一木造で、顔面は磨耗が激しいものの、愛嬌のある可愛らしい面相です。本殿に安置され、信仰の対象にもなっていたようです。
市内に残る最古の彫刻です。
阿蘇神社の境内から出土した、14世紀前半から中ごろに製作された瓦類です。
大きな鼻を持つ鬼瓦、左巻きの三巴文の軒丸瓦、陽刻下向き剣頭文の軒平瓦、丸瓦、平瓦などが指定されています。
室町時代の西多摩周辺では、瓦葺の社殿は大変少なく、神社の歴史と規模がしのばれます。
羽西の共同墓地内に所在します。
中世期応永年間の宝篋印塔で、伊奈石で作られ、塔の形態は典型的な関東型を呈します。
この時期に西多摩地方を治めていた三田氏との関連が深い石塔と考えられます。
同地には、「至徳四年」の銘のある宝篋印塔の残欠や、応永年記の板碑、その他の五輪塔や石造物なども所在しています。
稲荷神社に合祀されている八雲神社の山車は、大正8年(1919)に砂川村(現立川市)一番組から譲り受けたものです。文久2年(1862)に制作されたことが判明しています。
「一本柱建人形山車」と呼ばれる構造で、屋根を貫通した高欄には須佐之男命と八重垣姫が乗せられますが、現在では通行上の問題等から高欄は外して曳かれます。
阿蘇神社の神輿は、市内の神社本殿等を多く手掛けた宮大工小林藤馬によって、江戸時代末期に制作されました。
本格的な堂宮の技法を神輿造りに取り入れており、中世の特色も強く反映されています。神輿全体の装飾も非常に優れています。
市内には6つの囃子保存会が意欲的な保存伝承活動を展開しています。このうち5団体が「重松流」と呼ばれる系統で、残りの1つが「神田囃子」の系統です。これらの総体としての「羽村の祭りばやし」が無形民俗文化財に指定されています。
神社の祭礼のほかにも、夏まつりや産業祭などの市の行事でも演奏されています。
阿蘇神社の隣には、かつて吉祥寺というお寺がありました。中世には小田原北条氏の祈願寺として栄えたようですが、江戸時代には無住となり火災にあって廃寺となってしまいました。
現在は墓地のみが残されています。
禅林寺境内の一角に建つ碑で、「豊饒の碑」とも呼ばれています。石碑は明治27年(1894)に西多摩村有志よって建てられましたが、その発意となったのは天明4年(1784)の天明一揆です。
この一揆には羽村の名主も首謀者として加わり、結果的に9名の村民が犠牲となりました。明治のこの時期、有志の多くは三多摩の東京府移管に反対した青年らでした。彼らの権力に対する抵抗姿勢や不屈の抵抗精神等の高揚が、天明一揆に対する再評価となり、一揆に殉じた9名を「義挙」として記念するための碑を建立したといわれています。「羽村人の気質」を象徴するものです。
阿蘇神社参道脇の一峰院寺領の林の中に、宝篋印塔1基と五輪塔2基が建っています。この五輪塔のうちどちらか1基が三田雅楽之助平将定の墓と伝えられています。
三田将定は一峰院の開基として一峰院縁起に記されており、中世期にこの地方を治めた三田氏の一族です。
五輪塔、宝篋印塔とも江戸時代以降の形式であり、墓との直接的な関連は不明です。
承応2年(1653)に玉川上水が開削されると、取水口の管理のために幕府の役所として陣屋が置かれました。実際の上水管理人である水番人も任命され、取水口管理の全般を行いました。
江戸からの情報がストレートにもたらされ、水番人たちにも企業家的資質が育まれ、「進取の気性」といわれる「羽村人の気質」が生まれる土壌となりました。
当時の建物は陣屋門を残すのみですが、現在も東京都水道局羽村取水所として上水の管理を行っています。