中里介山、本名弥之助は、明治18(1885)年4月、玉川上水の取水堰にほど近い多摩川畔の水車小屋で生まれました。
もともとは「中農として押しも押されもせぬ百姓」(「哀々父母」)であった中里家も、介山の少年時代には土地を失って、故郷喪失の憂き目にあいました。
大正3年(1914)、数え年30歳の時、介山は故郷羽村について次のように書いています。
「故郷といふものも、その当座数年が間は、よく僕のインスピレーションではあったけれど、今となっては、破れた太鼓のやうで、薩張離きかない」(未発表草稿「故郷」)
若い日の介山にとって、羽村は過去の脱け殻にしてしまいたい場所だったのでしょうか。
小学校を出た介山は、電話交換手や代用教員をしながら家族を支えていました。きびしい貧しさの中でも独力で勉強を続け、正教員の資格を目指します。さらに、当時の日記には英語・美学・哲学などの文字もみえ、まんべんなく体系的な学問を習得するよう心がけていた様子がうかがえます。
介山は、上京して教員を続けながら、キリスト教や社会主義運動に関心を寄せ、日露戦争のはじまった明治37年(1904)には、すぐれた反戦詩を発表しています。
我を送る郷關(きょうかん)の人、
願くは暫し其『萬歳』の聲を止めよ。
靜けき山、清き河、
其異様なる叫びに汚れん。
(「乱調激韵」)
介山にとって、故郷とは汚すべからざる存在であったようです。
日露戦争後、介山は社会主義運動から離れ、認められて都新聞社へ入社します。
ようやく生活の安定した介山は、「都新聞」の紙上に「氷の花」「高野の義人」などを次々と発表し、好評を得ます。そうした中で「大菩薩峠」を着想し、大正2年(1913)9月、「都新聞」に連載を開始します。この時介山は28歳でした。
「大菩薩峠」が成功し、大正8年(1919)、介山は執筆に集中するために都新聞社を退社。さらに大正11年(1921)には、よい環境を求めて高尾山麓に草庵を結びます。ここでの日々は、介山の生涯で最ものびやかなものでした。
「だが、併し、高雄の山の千年樫の下は忘れられない。ここにはどうしても現はしきれない夢のやうなローマンスも人間苦の観照もあつた。」(『千年樫の下にて』)
この夢のような日々も、高尾山のケーブルカー架設工事によって破られてしまいました。高尾を去った介山は、故郷に近い奥多摩の地にいくつかの草庵を結びます。
高尾時代は隣人学園という児童のための教育機関をつくり、奥多摩では図書室や武道場を開放して「隣人道場」と名付けました。
こうした学園や道場は、介山の思い描くユートピアを構成する部品であり、やがてこれらの事業は、故郷の羽村に集積され、組み立てられていきます。
奥多摩に移ってまもなく、またも介山は夢破られます。隣人道場の足下で、青梅鉄道(現JR青梅線)の延長工事がはじまったのです。この工事のために道場下に崖崩れが生じたことから、介山は抗議の意を込めて、空に向かって護身用ピストルを発砲します。そして、これをきっかけに奥多摩での理想郷づくりを捨て、改めて故郷へと向かいます。
高尾から奥多摩の草庵生活を繰り返すうちに、介山は農業経営への意欲を深めていきます。羽村に残されたわずかな祖先伝来の土地を買い足し、ほぼ1町歩の畑を取得し、これを「植民地」と呼びました。ここに奥多摩の道場・草庵をことごとく移築し、直耕と塾教育を合一させ、吉田松陰の松下村塾にならった西隣村塾を開校します。これは昭和5年5月のことです。
塾教育から学校教育への過渡期に成育し、しかも満足な学校教育の恩恵をうけなかった介山は、営業的・画一的な学校教育が全盛していることに大きな疑問を持っていました。塾教育の長所ともいうべき創作性・天才性を重視する介山は、あえて私塾西隣村塾を創設したのです。
しかし、この塾教育構想は、わずか半年であえなく崩れ去ってしまいました。農業を主体とする自給自足の塾教育の実践は、すでに時代にそぐわないものでした。
とはいうものの、介山の塾経営がことごとく失敗したわけでもありません。少年少女を対象とする隣人少年日曜学校は、高尾の隣人学園同様に、一定の成功をおさめました。「教育勅語」に基づく往時の学校教育とはおよそ様相を異にした民間児童教育の薫陶(くんとう)を受けた門人たちは、今もこれを介山の徳と称賛して止みません。
日本が日中・太平洋戦争への道にひた走るころ、介山はこうした村塾経営を試行錯誤しながら、植民地に籠居(ろうきょ)しつつ、いよいよ農本主義的傾斜を深めていきました。
日本ファシズムの吹き荒れる戦渦にあって、出征兵士の壮行風景をみては、「生き葬い!」とつぶやき、昭和18年(1943)の秋の長雨を「崩壊降り」と日記に書きとどめています。そして、すべての文学者たちの加盟を強要する日本文学報国会への加入を、ひとり敢然と拒否する、といった気概を示しました。
こうした烈々たる批判精神を堅持しながらも、敗戦濃厚となった昭和19年(1944)4月、惜しくも腸チフスで亡くなります。享年59歳。介山の夢みた壮大なユートピア構想は、『大菩薩峠』という幻想の世界の中で、悠久に生き続けていくに違いありません。
年号 | 西暦 | 年齢 | 年譜 | 社会の動き |
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明治18 | 1885 | 0歳 | 4月4日、神奈川県西多摩郡羽村(現東京都羽村市)に、父中里弥十郎、母ハナの次男として生まれる。本名弥之助。 | 内閣制度実施 |
明治23 | 1890 | 5歳 | 4月、村立西多摩尋常高等小学校尋常科一年に入学。校長は黙柳佐々蔚。 | 教育勅語発布 |
明治25 | 1892 | 7歳 | 家業不振のため一家は横須賀に移住。弥之助は公立辺見小学校に転校。 | |
明治27 | 1894 | 9歳 | 羽村に帰郷。西多摩小学校尋常科四年に編入。9月、同校高等科一年を終了。 | 日清戦争勃発(~95年) |
明治29 | 1896 | 11歳 | 4月、西多摩小学校高等科二年終了ののち、同校教員助手となる。少年夜学会を主宰。 | 羽村郵便局開設(現南郵便局) |
明治30 | 1897 | 12歳 | 西多摩小学校高等科三年を終了。恩師佐々蔚のもとに寄宿し、勉学に励む。 愛読雑誌「小国民」に、「さても憂たての世の中や」の一文が掲載される。 | |
明治31 | 1898 | 13歳 | 3月、西多摩小学校高等科を卒業。日本橋浪花町電話交換局に交換手見習いとして勤務。 | 幸徳秋水・片山潜ら社会主義研究会設立 |
明治32 | 1899 | 14歳 | 東京電話局浪花町分局・新橋分局・御徒町分局を経て、電話交換手に昇進。 | |
明治33 | 1900 | 15歳 | 電話交換手を依願退職。母校西多摩小学校の代用教員となる。 | 治安警察法公布 |
明治34 | 1901 | 16歳 | 準教員免許状を得る。 | 西多摩小学校新築 |
明治35 | 1902 | 17歳 | 尋常小学校本科正教員検定に合格。恩師黙柳佐々蔚他界。 | |
明治36 | 1903 | 18歳 | 西多摩小学校を退職。幸徳秋水ら社会主義者と接触。「平民新聞」の懸賞小説に「何の罪」が佳作入選。 | 幸徳秋水・堺利彦ら平民社設立 |
明治37 | 1904 | 19歳 | 東京府尋常小学校本科正教員免許状を得る。「平民新聞」に「嗚呼ヴエレスチヤギン」「乱調激韵」などを発表。日露戦争に際し、非戦論に立つ。 | 日露戦争勃発(~05年) |
明治38 | 1905 | 20歳 | 慈育小学校の正教員となり、貧民児童教育に専念。のち愛宕小学校に転任。 | |
明治39 | 1906 | 21歳 | 都新聞社へ入社。エッセイ集『今人古人』を隆文館から処女出版。 | |
明治40 | 1907 | 22歳 | 「新公論」に短編小説「留さん」「姉と弟」を発表。 | |
明治42 | 1909 | 24歳 | 7~8月、東京記者団一行に加わり秋田地方を巡覧。「都新聞」に処女作「氷の花」を連載。 | |
明治43 | 1910 | 25歳 | 父弥十郎他界(54歳)。「都新聞」に「高野の義人」を連載。『高野の義人』を同人社から出版。 | 大逆事件(幸徳秋水ら逮捕される) |
明治44 | 1911 | 26歳 | 友人と井の頭散策中に喀血。都新聞社をしばらく休み、熱海で静養。 | |
明治45 大正1 | 1912 | 27歳 | 都新聞社内に独身会を組織し、機関誌「独身」を創刊。聖徳太子の研究を決意。 | 第1次護憲運動 羽村村内に電灯がともる |
大正2 | 1913 | 28歳 | 9月12日から「都新聞」に「大菩薩峠」を連載。 | 1914年第一次世界大戦勃発 (~19年) |
大正4 | 1915 | 30歳 | 弟幸作に古本屋・玉流堂を開かせる。 | |
大正7 | 1918 | 33歳 | 『大菩薩峠』〈甲源一刀流の巻〉を自家製和装本として玉流堂から自費出版。 | 米騒動 |
大正8 | 1919 | 34歳 | 都新聞社を退社。 | 普通選挙運動が各地に拡大 |
大正10 | 1921 | 36歳 | 春秋社から『大菩薩峠』の出版が決まり、出版記念会が催される。 | |
大正11 | 1922 | 37歳 | 高尾山妙音谷千年樫の下に妙音谷草庵を結ぶ。 | 禅林寺が漏電のため全焼 |
大正13 | 1924 | 39歳 | 隣下南多摩郡浅川村に隣人学園を設置。 | 1923年関東大震災 |
大正14 | 1925 | 40歳 | 高尾山の妙音谷草庵を三田村沢井に移し、黒地蔵文庫と呼ぶ。 | 普通選挙法公布 |
大正15 昭和1 | 1926 | 41歳 | 隣人之友社を創設し、「隣人之友」を創刊。 | 羽村製糸工場設立 |
昭和2 | 1927 | 42歳 | 黒地蔵文庫近くの谷久保沢に八雲谷草庵を開く。「改造」に連載中の「夢殿」が掲載禁止となる。 | 金融恐慌 |
昭和3 | 1928 | 43歳 | 沢井の黒地蔵文庫を羽村へ移す。『千年樫の下にて』を隣人之友社から出版。 | |
昭和4 | 1929 | 44歳 | 『DAI-BOSATSUTOGE』(C.S.バビア訳)『夢殿』を春秋社から出版。 | |
昭和5 | 1930 | 45歳 | 西隣村塾を開く。大菩薩峠記念館開館。 | 世界恐慌が日本にも波及 |
昭和6 | 1931 | 46歳 | 7月から約1か月、中国・朝鮮などを旅行。 | 満州事変 |
昭和7 | 1932 | 47歳 | 春秋社に大菩薩峠刊行会を創設。 | 五・一五事件 |
昭和9 | 1934 | 49歳 | 『大菩薩峠』の挿絵について石井鶴三との間に著作権問題がおこる。 | 1933年国際連盟脱退 |
昭和10 | 1935 | 50歳 | 西隣村塾内に日曜学校を開設。個人雑誌「峠」創刊。 | |
昭和11 | 1936 | 51歳 | 衆議院議員選挙に立候補するが落選。 | 二・二六事件 |
昭和12 | 1937 | 52歳 | 『大菩薩峠』映画化の件について日活と絶縁。 | 日中戦争勃発 |
昭和13 | 1938 | 53歳 | 甥池谷廉一事故死。 | 国家総動員法成立 |
昭和14 | 1939 | 54歳 | 6~7月、アメリカ旅行。『池谷廉一の死』(非売品)を清揚社から出版。 | 国民徴用令公布 |
昭和16 | 1941 | 56歳 | 母ハナ他界(82歳)。『大菩薩峠』未完の最終巻出版。 | 太平洋戦争勃発 |
昭和17 | 1942 | 57歳 | 日本文学報国会結成に際し、小説部会の評議員に推されるが辞退。 | |
昭和18 | 1943 | 58歳 | 西隣村塾耕書堂にこもり、農耕に従事し、身辺の整理にあたる。 | 学徒出陣 |
昭和19 | 1944 | 59歳 | 4月22日、阿伎留病院に入院。28日午前8時15分、腸チフスのため永眠。遺骨は禅林寺墓地に埋葬される。法名は修成院介山文宗居士。 | 学童集団疎開開始 |