今年も、80回目の終戦記念日を迎えました。私たち家族は、終戦の詔勅を、縁側で聞きながら、日本国民は、全員死ぬんだと思って、恐ろしかった。
私は、いま89歳、何もできない完ぺきな老人です。
昭和16年から昭和20年の第二次大戦中は、まだ小学校低学年でした。戦中末期から戦後にかけて、食糧難で、代用食のサツマイモを食べながら飢えた日々を過ごしていました。
昭和18年に文京区本郷から瑞穂町長岡へ、家族ぐるみで疎開して、生き延びました。本土決戦を予測して、瑞穂長岡近くの前山は、戦車や飛行機まで隠してありました。戦後、埋めてあった航空燃料など勝手に掘り出して、大儲けした人達が大勢いました。
通っていた小学校は、軍に接収されていたので、蚕(かいこ)の飼育場で、授業をしていました。変な精神教育が浸透していて、真冬でも朝礼に裸足で並ばせられました。ひもじく、足がしびれて、つらかった思い出です。
昭和20年にはいると、大編隊で米軍機が襲来し始め、警戒警報が鳴って、空は銀色に輝くB29の大編隊がやってきました。爆撃して悠々と帰るB29に、時に単発の小さな特攻機が体当たりしました。マスコミで、馬乗り航空機などと称賛されていました。空襲警報が鳴って、かび臭い防空壕に入るのが嫌でした。
一夜で10万人が死んだ、昭和20年3月の東京大空襲の時は、住んでる長岡からみても、東の空が3日間ほど、真っ赤に燃えていました。戦後、何もない紺碧の空の美しさを思い出します。
終戦後、母の兄弟たちが、復員してきて、狭い我が家も雑居状態でした。食糧難で、ひもじかったです。
終戦直後は、疥癬(かいせん)が横行して、その治療と、のみ、シラミの蔓延で、衣類の熱湯消毒、DDTの散布で、健康障害が起きていました。終戦直後の東京に行ったとき、見渡す限りのがれきの街並みにびっくりしました。宮城前の広場は、戦時中の教育勅語(きょういくちょくご)など、かしこまって読んでいた多数の人たちから、戦後は、アベックの群れに代わっていました。
いま、我が国は、素晴らしい平和国家です。この安穏たる平和の国が、永遠に続くことを心から願っております。
木下 正彦