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羽村市

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あしあと

    【戦後80年】敗戦から引き揚げまで

    • 初版公開日:[2025年02月28日]
    • 更新日:[2026年3月17日]
    • ID:20566

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     日本の敗戦を知ったのは中国廬山(ろざん)の別荘にいる時だった。

     血相変えて飛び込んできた知人に「日本は戦争に負けたんだって、それも何日か前だって」と聞いた時は嘘だと思った。学校でも日本は勝つとしか教えていなかった。中国江西省の九江市で電報電話局の局長をしていた父が迎えに来て、9歳の私と8歳と4歳の妹と1歳の弟を連れて母と揃って下山し自宅に帰ってみると、そこはもう中国軍の司令部が占領したので五日以内に出て行けと貼り紙がしてあった。そこで父の友人で明和洋行の社長の古賀さんが住んでいるビルに引っ越すことができた。

     その後、父は仕事のことで漢口の電報局に連絡をとるため、手紙を書いて港に停泊中で明日漢口へ行く船の通信士に会うため浮きドックの上を歩いている時、暗かったのでたまたま開いていたハッチ(上げ蓋)に気が付かず鉄の梯子伝いに18メートルの底まで落ちて意識を失ってしまった。助けてくれたのは中国人の男性4人で、結構な道のりを戸板のような物に乗せて運んで来れたのだった。古賀社長がドアを開けると中へ入れてくれて、何も言わずにこにこしながら帰って行った。

     それからが大変だった。体中傷だらけで寝かすこともできないので、タオルや枕等を当てて休ませた。次の朝、古賀社長や奥さんが医者を呼んで手当してもらった。その頃やっている病院を探すのも大変だった。頭から足の先まで包帯で巻かれた姿を怖がって弟は泣いてばかりで妹も傍へ行かなかった。父はまるでミイラだと言いながら、助けてくれた中国人に感謝していた。あの時、これはもう死んでいると揚子江に投げ捨てていたら終わりだったな、とよく話していた。そう言う父も、戦争中に怪我をした中国人に自分の血を輸血したり、空襲で怪我をした人に家にあるもので手当したり隔て無くやってはいた。

     父が回復しないうちに、またそこも中国軍の命令で明け渡すことになり、今度は白木屋百貨店の2階へ引っ越した。広い建物の中には商品等全く無かった。仕切られたあちこちの部屋にいろんな人達が住んでいた。日がたつにつれてみんなと仲良くなった。ある日、見たこともないピカピカの美しい乗用車が白木屋の裏に止まった。近所の人達も皆で見ていると、立派な軍服を着た偉そうな人が降りて来て、

    「吉田栄はいますか」

    と父の名前を呼んだ。父と会って話をした後、その人達は父をその高級車に乗せて行ってしまった。

     皆が心配したが夜遅くなって、あの車で送られて帰ってきた。話を聞くと壊れたラジオを直したのだと言うのだった。

    「いやー驚いたよ。アメリカのラジオは進歩しているよ、見たこともない真空管だったよ。説明書は英語だったからね、時間がかかったよ。でも治ったから良かったよ」

     父は嬉しそうだった。

     次の日、また乗用車が来た。同じ人が来た。顔見知りになった3人の娘たちの頭を何度でも撫でてくれた。その日の用は、吉田家には3人も女の子がいるのだからその中で1人を貰いたいという話だった。そうしたらアメリカで最高の教育を受けさせ、最高のレディーに育てるからと言うのだった。日本に帰っても生活は楽ではないだろうし、教育も思うようにはできないだろうとは思ったが断わることにした。

     また次の日、顔馴染になった3人がまたやって来た。今度の話はこれから自分達は日本へ行って、アメリカの軍艦ミズーリ号において日本の降伏調印式に出席することになっているから、吉田とその家族は軍艦に乗せて連れて行ってやろう。その代わり家族を降ろしたら吉田は戻って来るのだ、そして中国人を指導して貰いたい。帰国できるのは、なんと有り難いこと、夢のような話であった。でも、自分だけがそんな良いことはできなかった。多くの社員がいて家族もいるのにほったらかしにはできなかった。引き上げる時はみんな一緒に決まっているから、せっかくの誘いを断ってしまった。そのことについても、帰国後どうにもならない貧しい暮らしが続きお金が無くて学校へも行けなくなったとき、学年で一番の秀才と言われた次女の弘子は、「ああ、あの時貰われた方がよかった。」と悔しがった。昼間働き夜学へ通った。

     白木屋で暮らしたのも短時間であった。九江市にいる日本人は集められ貨物船に乗せられ彭沢(ほうたく)に収容された。彭沢では、帰国する県ごとにまとめられ班が作られた。屋根も壁もトタン張りで、窓がないので壁を切り開きつっかい棒で開けたり締めたりしていた。狭い窮屈な場所に班ごとに分かれて寝起きして班ごとに炊事して、家族のように暮らしていた。7、8か月の長い間みんなと仲良く暮したけれど、飛んできたトタン板が当たり顔に大怪我をした下の妹敏子の辛い出来事は忘れることはない。

     揚子江の濁った水を汲み大きな瓶に入れて一日置き、上澄み液を使って洗い物をしていた。トイレはトタン張りの別棟が建っていて20個ばかりドアが並んでいた。食料品は全て中国軍から配られていた。貰った食料品を班毎に調理し分け合って食べたのだが、10班にはレストランを経営していた人や、板前さんもいて美味しい食事が食べられた。

     ここには兵隊さんも大勢いた。よく音楽会をやってくれたり、芝居を見せてくれていた。「不如帰」「父帰る」「金色夜叉」「瞼の母」何回も見て台詞も覚えた。一般の人も班ごとに踊りを見せたり劇をやって競争するようになり、父達も「博多にわか」をやって一等賞を取って益々親密になっていき、俳句会も熱心にやっていた。

     「城壁に雁も合わせて江流る」

     父の句ではなかったがこれだけは覚えている。その他、作詞作曲して歌を作って歌ってくれる人もいた。10歳だった私でもまだ覚えているからあそこにいた人はまだ覚えているはずだ。

    髙橋 玲子

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