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あしあと

    【戦後80年】終戦の日の記憶 -平和の尊さを胸に-

    • 初版公開日:[2025年02月28日]
    • 更新日:[2026年3月17日]
    • ID:20597

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    戦争を体験した世代として、今の平和な時代に生きる人々へ、あの日の出来事を少しでも伝えたいと思います。

    昭和20年8月15日――終戦の日。

    当時中学三年生だった私は、学徒動員の中でその日を迎えました。

    あれから八十年。今も、あの日の光景と心の震えは忘れられません。

     

    【終戦の知らせ】

    昭和20年8月15日、福岡県八女郡羽犬塚。飛行機部品製作工場。

    真夏の日差しの下、私たちは学徒動員の作業に従事していました。

    正午、ラジオから流れる玉音放送。

    「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」

    それが“終戦”を意味することを理解したのは、少し時間が経ってからでした。

    戦いが終わったという安堵と、これからどうなるのかという不安が交錯しました。

     

    【焼け野原を越えて】

    その後、鹿児島の実家に帰るため、鹿児島本線の汽車に乗りました。

    しかし、宇戸と川尻の間――線路の橋はアメリカ軍の爆撃で破壊されており、その区間は重い荷物を背負い、炎天下の中を歩いて越えなければなりませんでした。

    途中、見知らぬ人たちと助け合いながら歩いたことを覚えています。

    誰もが疲れ、空腹で、けれども「生きて帰れる」という思いだけで歩いていました。

     

    【焼け残った我が家】

    鹿児島に着いたとき、西田町 一丁目辺り一面は焼け野原でした。

    建物はほとんど焼け落ち、黒い煙の跡だけが街を覆っていました。 

    しかし、幸運にも我が家は近くの数軒と共に焼け残っていました。

    家が残った嬉しさと、周囲の惨状を見た悲しさ――

    あの時の胸の中の複雑な思いは、今も言葉に尽くせません。

     

    【戦争を思う】

    あの経験を通して、私は心に深く刻みました。

    「戦争はするものではない。そして、負ける戦争は絶対にしてはならない。」

    戦争はすべてを奪います。

    命を、家を、希望を。

    どんな理由があろうとも、平和に勝るものはありません。

     

    【昭和100年の今】

    昭和から令和へ。

    時代は移り、人々の暮らしは豊かになりました。

    けれども、世界では今も争いが絶えません。

    私があの日歩いた焼け野原を、二度と若い人たちに見せてはならない。

    そう願って、筆をとりました。

    平和こそ、一番の宝です。

     

    この記録は、戦中・戦後を生きた一人の中学生の思い出として書き残しました。

    これを読んだ方が、どうか平和の意味を思い出していただければ幸いです。


    佐瀬 久行 

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